サラブレッドの約2倍にあたる体重1トンもの巨大なばん馬が、こちらも最大1トンにも及ぶ鉄ソリを曳く、迫力満点のばんえい競馬。世界でも類を見ない、帯広でしか見られないレースです。この唯一無二のレースが、どうやって生まれ、どういう運命をたどってきたのか……その変遷をたどっていくと、時代の流れと人々の生活も浮き彫りになっていきます。ばんえい競馬の歴史に改めて注目してみましょう。(トップ写真提供:荘田喜輿志)
ばんえい競馬の由来となった競走は、北海道の開拓時代にまで遡ります。農耕や運搬といった力仕事において、大いに活躍していたばん馬。このばん馬を引き合わせ、力比べをさせたのがはじまりだとされています。やがて明治の終わり頃になると、農村のお祭りとして、現在のようにソリを曳かせる「お祭りばん馬」が定着しました。さらに十勝では、明治44年に十勝国産馬組合が競馬場を建設し、いち早く「十勝競馬」を開催したのです。昭和7年には名称を「帯広競馬」と改め、現在と同じ場所に施設も完成させました。
ばんえい競馬に転機が訪れるのは、昭和21年のこと。地方競馬法が公布され「競馬の種類は駈歩、速歩、障害、ばんえいの四種とする」と定められたのです。競馬法の中に組み込まれたことで、レースは規則化されます。こうして昭和22年、初の公式ばんえい競走が旭川と岩見沢で開催。草創期はまだソリの大きさや重さもまちまち、騎手たちの体重制限などもなく、全員がねじり鉢巻き姿だったといいます。
昭和23年には改正競馬法により地方競馬は都道府県主催となりましたが、さらに昭和28年には市営競馬が発足。旭川、帯広、北見、岩見沢の4都市でのばんえい競馬がはじまりました。これによって、ルールも少しずつ改正されていきます。一時は騎手の立ち乗りも禁止されていましたが、昭和38年に解除されました。
木製のソリは雨に濡れるとずっしりと重くなるため、昭和46年から鉄製のソリに。最初は禁止されていた馬を打つ行為も、馬の能力を引き出すために必要だと、昭和40年に「手綱の余った部分」と定めて打つ力を制限することで解除されました。
こうして発展を遂げてきたばんえい競馬は、昭和40年代後半から50年代前半にかけて、隆盛期を迎えます。全国的な競馬ブームの到来により、それまで北海道民のレジャーだったばんえい競馬も注目を集めることになったのです。
昭和48年には東京の大井競馬場ではばんえいアトラクションが開催され、倉本聰さん脚本のテレビドラマ『ばんえい』も放映。ばんえい競馬は、全国の地方競馬の中でもトップクラスの売り上げ上昇率を示しました。
しかし、ブームは永遠に続くものではなく、売り上げは徐々に下降線をたどりはじめます。そこで、平成元年には4市が協力し、北海道市営競馬組合を設立。経営基盤の安定化を図りました。一時は3年連続して発売額を更新するなど人気回復の兆しを見せましたが、バブルが崩壊すると売り上げは一気に低迷。ばんえい史上、もっとも深刻な危機を迎えることになるのです。
平成18年には「ばんえい競馬改革検討プロジェクト」が設置されるなど、運営の抜本的な見直しが図られましたが、同年に旭川、北見、岩見沢の3市が撤退を正式表明。帯広も「単独で開催することは困難」との考えを示します。そこで、ばんえい競馬馬主協会と北海道ばんえい競馬調騎会が立ち上がり、市に請願書を提出。全国のファンや市民有志も声を上げ、存続を訴えました。
すると事態は急展開! 民間の支援を得て、帯広市単独でばんえい競馬を存続できることになったのです。こうして平成19年、新生「ばんえい十勝」が幕を開けます。レースと共に多彩な催しを楽しむことができる、明るい施設へと生まれ変わりました。ばんえいで初となるナイター競馬が開始されたのも、同じ時期でした。
長い歴史の紆余曲折を経て、今もばんえい競馬は幅広い人気に支えられています。帯広を訪れた際は、世界で唯一のレースをぜひ味わってみてください。巨体ながらも可愛い目をしたばん馬たちが、出迎えてくれますよ!
取材協力
とかち馬文化を支える会
住所:北海道帯広市西13条南9丁目 帯広競馬場1階
電話:0155-67-6890
公式サイト:http://umabunka.com/
Facebook:https://www.facebook.com/umabunka/
参考文献
「ばんえい十勝10周年記念誌」(帯広市農政部ばんえい振興室)
「ばんえいまんがどくほん」(内田靖夫著・北海道市営競馬協議会)