北海道の大地をたてがみをなびかせながら馬が駆ける……大自然の象徴として、そんなシーンを思い浮かべる人もいるかもしれません。北海道で馬が飼われはじめたのは15〜16世紀のこと。その後、北海道開拓に伴い、本州から大量に導入されたのです。十勝農業発展の礎となった、人と馬との関係。その歴史を紐解いていきましょう。
(トップ写真提供:荘田喜與志さん)
日本政府が北海道に開拓使を設置したのは、明治2年のこと。函館を基地として、翌3年には本格的に開墾がはじめられました。そこから遅れること10年余りの明治14年、函館から根室までを3ヶ月かけて調査した人物がいます。後に十勝開拓の先駆者と言われる、依田勉三です。勉三は帯広を移住の地と定め、明治16年に13戸・27人から成る晩成社を率いて開墾を開始しました。さらに明治18年には、農用馬6頭を入れたのです。
人がクワを使って耕せるのが1日3アール(30m×30m)のところ、馬の力だと1日60アール。実に人の20倍ものスピードで開墾が進んでいきました。
馬の力は、土地を耕すことのみならず、多岐にわたりました。たとえば、伐採した木や荷物の運搬、切り株の引き抜きなど。馬の導入により、プラウなどの畜力農具も普及し、十勝独自の農機具も大きく発展していきました。人と馬が共に労働することは、日常的な当たり前の風景だったのです。
赤ん坊の頃から馬そりに乗せられ、年老いて亡くなれば棺桶を馬が運ぶ……十勝において、人の一生まるまる馬が関わっていたと言っても過言ではありません。
ピーク時の昭和30年頃には、道内に50万頭もの馬がいたと言われています。ところがトラクターの普及が進むにつれ、農業は大型機械化への道をたどりはじめます。昭和40年にもなるとモータリゼーションの波に押され、馬の数は2万頭にまで減少しました。
さて、ここで話を明治時代に戻しましょう。北海道の開拓では、厳しい気候風土に適した北海道和種「どさんこ」が活躍していました。また、より力のある農耕馬を求め、大型馬の輸入も盛んに行われていました。中でも有名なのが、フランスからやって来た「イレネー号」です。
大きくて力持ち、しかも温厚な性格だったという雄のイレネー号は、家畜改良に大きく貢献。なんと18年間にわたり、579頭もの子を授かりました。さらに明治の終わり頃になると、馬の価値や力くらべのため、競争が行われるようになりました。明治44年11月、十勝国産馬組合は競馬場を建設し、十勝競馬を開催。ばんえい競馬のはじまりでした。
現在、十勝の馬の数は2000頭を切るとも言われています。かつては道内4市で行われていたばんえい競馬も現在は帯広競馬場のみとなり、ばんえい競馬自体の存続が危ぶまれたこともありました。人の生活に、もはや馬は必要とされていないのかもしれません。しかし、馬なくして開拓なしと言われるほど、十勝の歴史は馬と密接に築き上げられてきたことは紛れもない事実。そんな馬文化を次世代に伝えるためにも、もう一度、先人たちの歩みを振り返るべきなのです。