帯広市民で、赤レンガ造りの建物といえば、ここを思い出す人も多いのではないでしょうか。帯広市西2条南5丁目にある、堂々たる古建築物……「宮本商産株式会社」の旧本社ビルです。しかしこの宮本商産を創業したのが、弱冠19歳の若者だったという事実は、帯広市民にもあまり知られていないかもしれません。どういう経緯で、十代という若さで会社を興すに至ったのでしょう? 宮本商産の歴史に迫ります。
宮本商産の創業者である宮本富次郎氏は、明治17年5月25日、和歌山県のとある商家に生まれました。明治31年、父親が北海道での事業を計画。14歳となった富次郎氏は父に連れられ、銭函を訪れます。そこで製粉製麺事業をはじめるものの、上手くいかず、やがて父は帰郷してしまいました。普通なら父と共に帰郷するところですが、富次郎氏は諦めません。ところが事業はそう甘いものでもなく、結局のところ、製麺機械1台とうどん170箱を抱えて、社会の荒波に放り出されてしまいます。
それでも北海道に新天地を開こうと決意した富次郎氏は、岩見沢、旭川、名寄などを踏査します。そうして帯広に足を踏み入れた時、この肥沃な十勝こそが自分の第二の故郷だと定めたのです。直ちに準備を開始し、ついに製麺業と食料品の小売りを行う宮本富次郎商店を創業。明治36年6月15日、富次郎氏、弱冠19歳の時でした。
その後、妻と共に懸命に働き、雑穀仲買人としての手腕を徐々に発揮していきます。大正時代に入ると、相場変動の大きな雑穀に見切りを付け、米、酒類、食料品の卸問屋に転向。大正5年にはシェル石油と特約し、石油販売にも乗り出します。もちろん、常に順風満帆というわけではありません。友人の保証人となって多額の債務を負い、家財道具を差し押さえられたこともありました。そんな中、第一次世界大戦による好景気で、雑穀やでんぷん、米価などが高騰します。富次郎氏の会社も高利益を上げ、大正8年、赤レンガ造りの店舗兼住宅が完成したのです。
大正12年になると、サイダーなどの清涼飲料水を取り扱う工場も手掛けます。富次郎氏には天性の先見性と商才がありました。また、新しいものでも躊躇することなく取り入れ、ダメだと思ったものはすぐに撤退する潔さもありました。こうした富次郎氏の才覚の下、会社は多角経営の色彩を強めていったのです。
また、忘れてならないのは、妻であるスミエ夫人の内助の功です。創業時代から富次郎氏を支えてきたスミエ夫人は、昭和11年頃まで従業員約半数の寝食の面倒をも見てきました。手料理を家族と一緒に食べさせ、風呂に入れ、夜具の洗濯まで行っていたといいます。
社名を現在の宮本商産へと変えた翌年の昭和40年、富次郎氏は82歳で永眠します。明治、大正、昭和を駆け抜けた、偉大な経営者でした。その後、宮本商産株式会社は、昭和47年にハンバーガーショップをオープンしたり、昭和57年に車両販売センターを開設したりと、創業者の遺志を継いだ多角経営でさらに躍進していきます。
いち早く石油に着手し、また、プロパンガスなども手掛けてきた宮本商産株式会社。幕別や芽室に発電所を建設するなど、ソーラー発電にも力を注いでいます。そんな宮本商産株式会社現在注目している新しいエネルギーは、水素なのだといいます。常に時代の先を見据える事業展開は、まさに富次郎氏の築いてきた社風なのでしょう。
19歳の若者がはじめた商いは、長い年月を経て受け継がれ、これから先も続いていきます。平成29年に国の登録有形文化財に指定された旧本社ビルと共に、古きものを守り、新しきものを取り入れながら、帯広の街にあり続けることでしょう。